
エクセレント・フォトグラファー 厳選された世界の写真家
アジェ・フォト
Atget Photography
ビューティフル・アーティスト 洗練された個性の美
実際のところ、アジェの生い立ちや写真を撮った理由についてはよくわかっていません。
いくつかの断片的な事実や逸話などからぼんやりとした輪郭が浮かび上がっているだけです。
1857年、ボルドー近くのLibourneで生まれたアジェは、若いころは水夫をしていましたが、その後、旅回りの役者に転じました。脇役ばかりで大きな成功は収められなかったために、画家をやってみたりしましたが、結局40歳のときに写真を始め、これがライフワークとなったのです。
一見すると、彼は典型的なコマーシャルフォトグラファーのように思われています。けっして革新的な写真ではなく、当時すたれつつあったテクニックで愚直なまでに丁寧に仕事をしました。
晩年になると、そのテクニックは当時の流行から外れ、アナクロにさえ思われたはずです。
ムーヴメントを巻き起こしたわけでもなく、同調者もいませんでしたが、アジェの写真の純粋さ、強烈さに匹敵する写真家はほかにいないでしょう。
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エドワード・スタイケンは1879年、ルクセンブルクで生まれました。10歳のときに両親、妹とともにアメリカに移住し、その後1900年に帰化してアメリカ人となりました。
1894年、15歳になったスタイケンは、ミルウォーキーで石版印刷の見習いとして働き始めます。一日の仕事を終えるとスケッチをしたり絵を描いたりしていましたが、たまたま職場の近くにあったカメラ店を訪れるようになり、ついに最初のカメラ、コダックの中古の携帯用カメラを購入します。
スタイケンはその後ミルウォーキーからパリへ行きますが、その途中ニューヨークでアルフレッド・スティーグリッツに出会いました。スティーグリッツはスタイケンの絵画を賞賛し、さらにスタイケンの撮影した写真を3枚購入しました。1902年、スティーグリッツが写真雑誌『カメラワーク』の創刊を企画していたとき、スタイケンに表紙のロゴ・デザインと活字の制作を依頼しました。1905年にはスティーグリッツが「フォトセセッションの小ギャラリー」(その所在地の住所から通称「291ギャラリー」と呼ばれた有名なギャラリー)を設立するのに協力しました。
1911年、スタイケンはフランス人ファッション・デザイナーのポール・ポワレがデザインしたガウンの写真を撮影し、『Art et Decoration』誌の4月号に掲載されました。これが世界で最初に撮影されたファッション写真であるといわれています。
第一次世界大戦中はアメリカ遠征軍の航空撮影部門で参戦しましたが、大戦後はストレートな写真へとその写真スタイルを変化させ、徐々にファッション写真を中心に活動するようになります。1928年にスタイケンが撮影した女優グレタ・ガルボのポートレートは、彼女の代表的なポートレート写真のひとつといわれています。
第二次世界大戦が始まると、アメリカ海軍写真班で指導に当たり、一方でドキュメンタリー映画を制作しました。この戦争ドキュメンタリー『ファイティング・レディー』は1945年度アカデミー賞のベストドキュメンタリー賞を受賞しています。戦後はニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターを1962年まで務めました。
ニューヨーク近代美術館のキュレーター時代の仕事として有名なのは、1955年に開催された写真展「ファミリー・オブ・マン」展でしょう。この写真展は、200万枚以上の写真のなかからスタイケンがセレクトしたおよそ500枚から構成されていて、有名・無名に関わらず68か国273人の写真家の作品を集め、編集したものです。写真展は大成功を収め、38か国で展覧会が開催されました。これらの写真は、最終的にはスタイケン本人の希望により、彼の祖国ルクセンブルクに寄贈され、現在でもクレルヴォー城で常設されています。「ファミリー・オブ・マン」展は2003年、ユネスコの世界記録遺産に登録されました。
ロバート・フランクは1924年、スイスのチューリッヒに生まれました。
1947年に23歳でアメリカに移住、当初は商品撮影やファッション写真で生計を立てていましたが、その後ヨーロッパ各地を旅しながら写真を撮りました。
1955年、グッゲンハイム財団の奨学金を得て、アメリカ全土の撮影旅行に出ます。約2年間の旅で撮影した写真を編集したのが、写真集「The Americans」です。
旅を始めた頃のフランクは、まだアメリカでは新参者といっていい存在でした。そして、当時のアメリカン・カルチャーのド派手な狂気と、一方では妙に心を動かされるという矛盾を体験し、それこそ口も利けないほどの驚きを感じていたかもしれません。こうしたショックは、大人になってからアメリカに移住してきた多くの人々が経験したものでしょう。
ほんの一握りのアーティストや知識人だけが、逆にこの経験をクリエイティブな世界での武器にすることができました。新しい国への移住が、まるで生まれ変わりを意味するように。
ゲイリー・ウィノグランドは1928年、ニューヨークで生まれました。
1946〜1947年の第二次世界大戦中、空軍に所属していたときに写真を始め、1947年にニューヨーク市立大学で絵画を、1948年にコロンビア大学で絵画と写真を学びます。その後アレクセイ・ブロドビッチのもとでフォトジャーナリズムを学んだあと、1952年から1969年までフリーのフォトジャーナリスト兼広告写真家として活動しました。
最初の個展は1960年。1962年のキューバ危機が彼自身にも作品にも大きな影響を及ぼしたといわれ、仕事以外に、ニューヨークのストリートの写真を撮るようになります。
1966年にはリー・フリードランダー、デュアン・マイケルズ、ブルース・デイヴィッドソン、ダニー・ライアンとともにジョージ・イーストマン・ハウスで「Toward a Social Landscape」展を開催。翌年にはリー・フリードランダー、ダイアン・アーバスとMoMA(ニューヨーク近代美術館)で「New Documents」展を開催しています。
1960年代前半に撮影したストリート・フォトにおいて、ウィノグランドはロバート・フランクの写真集「The Americans」にヒントを得た視覚的戦略を展開させました。
それはハンディタイプのカメラに広角レンズを使用するというこれまでにない試みです。
当時、広角レンズはある特定の距離のときだけに使う特殊なツールという位置づけがされていたので、このため、ほとんどの写真家は文字通り壁を背にしていてこれ以上対象から遠ざかることができないという状況でない限り広角レンズを使おうとはしませんでした。
しかしウィノグランドは、より近い距離から彼が撮影したいものすべてをフィルムに収めるためにそれを使うようになったのです。こうして、例えば通常なら顔のアップを撮るような距離から、通りを歩く人々全体を撮影することができました。このような非常に近い距離からだと、相手の靴は上から見下ろす格好になり、顔は正面かやや下にありますので、この距離感で撮影すると実際の身体の比率とは違うため、どこか違和感のある不安定な複雑性を醸し出します。
こうした戦略でもってストリートで人物を撮影するということは、必然的にカメラは地面と垂直ではなくなることを意味します。カメラを構え、目の前の人物をフレームいっぱいに収めようとすれば、レンズは人物の臍のあたりを向き、カメラは約45度前方に傾いているはずです。
この状態では、どんなレンズを使っても建物の壁は画面に対して垂直ではあり得ず、壁同士は平行になり得ません。建築学的にこれは事実に反しています。しかし広角レンズはより広い画角をもつために、さらにその効果が強調され、建築学上のあらゆる感覚を破壊してしまいます。
