Gertrude Kasebier ガートルード・ケーゼビア




Gertrude Kasebier
ガートルード・ケーゼビア


アメリカ, 1852-1934

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Gertrude Kasebier ガートルード・ケーゼビア

1852年、アイオワ州デモイン(当時はフォート・デモイン)生まれ。旧姓スタントン。父親はゴールドラッシュに沸くコロラドでひと財産築いた成功者でしたが、ガートルードが12歳のときに急死したため、一家はニューヨークのブルックリンに移り住み、母親が下宿屋を開いて生計を立てることになりました。

22歳でブルックリンの裕福なビジネスマンであるエドゥアルト・ケーゼビアと結婚、3人の子どもが生まれました。しかし、この結婚は後に「もし夫が死後天国に行くのなら、私は遠く離れた地獄に行きたい」と語ったほど不幸なものでした。ふたりは生涯別居状態を続けました。こうしたすれ違いにもかかわらず、ガートルードが37歳にして美術学校に通い始めると、夫は財政面で支援したのです。アートを学び始めた動機について明らかにしていませんが、非常に熱心に勉強し、2年後にはブルックリンに設立されたばかりの私立美術学校プラット・インスティチュートに入学しました。

初めは絵画とスケッチを学び、間もなく写真に夢中になりました。そして当時の多くのアメリカ人同様、さらに写真を学ぶためヨーロッパに渡り、ドイツ、フランスで勉強を続けました。
翌年帰国すると、夫は病気で働けず、一家の財政は厳しくなっていました。このためプロの写真家になり、一家を支えることを決意します。1年後、肖像写真専門カメラマンのアシスタントとなり、スタジオ経営やプリント技術を学びました。そのわずか1年後にはボストンとニューヨークで個展を開き、150枚もの作品を発表しました。

個展の成功により、フィラデルフィア写真協会でも展覧会が催され、そこでの講演で女性の社会進出について次のように語りました。「芸術的センスのある女性にはぜひ、写真という分野に挑戦してみるようお勧めします。そういう女性にたいへん適した職業であると思うのです。すでに写真家として活動している女性はまだ少数ですが、みなさんいずれも仕事に満足し、経済的にも成功しています」


Gertrude Kasebier ガートルード・ケーゼビア

その頃、アメリカではガンマンやスー族インディアンなどが出演して西部開拓時代の雰囲気を味わう『バッファロー・ビルのワイルドウェストショー』という興行が人気を博しました。たまたま一座のパレードを目撃したガートルードは、ショーに出演しているインディアンの肖像写真を撮影することを決意。46歳のことでした。

ニューヨーク5番街にあるスタジオに招かれたスー族の人びとは、一番立派な晴れ着と羽飾りなどの装飾品を身につけてスタジオに現れ、誰もがまっさきに自分を撮影してもらおうと競い合いました。ケーゼビアは彼らのやる気に感謝はしましたが、彼女が求めていたのは子ども時代を過ごしたコロラドで見かけたような、着飾っていない生身の人間としてのインディアンだったのです。
結局、盛装したインディアンたちの中でただひとり、身分を示す装飾なしにやって来た部族のチーフ、アイアンテイルを彼女は選び、撮影しました。出来上がった写真はまさにケーゼビアの想い描いていた通りのものでした。

1899年、47歳のとき、アルフレッド・スティーグリッツが雑誌「カメラ・ノート」でケーゼビアの作品を5点紹介し、「間違いなく、この時代を代表する芸術的なポートレート写真家である」と宣言。彼女の名声は一気に高まりました。そして、スティーグリッツは自らが主宰する写真団体「フォト・セセッション」の創設メンバーとしてケーゼビアを迎えました。機関誌「カメラ・ワーク」の創刊号には彼女の作品が6点掲載されています。

プロの写真家としての生活と、母親であり一家の大黒柱としての生活とのバランスは、この頃次第に重圧としてケーゼビアにのしかかってきました。ストレスから逃れるためヨーロッパに渡り、スティーグリッツの紹介で彫刻家オーギュスト・ロダンなどの著名人を撮影しました。

ニューヨークに戻ると、思わぬ事態が彼女を待ち構えていました。スティーグリッツとの対立です。家族を養うため、写真撮影を職業としてとらえていた彼女の考え方は、芸術の理想を追求するスティーグリッツには受け入れがたいものでした。スティーグリッツはケーゼビアと距離を置き始め、ふたりの関係は二度と修復しませんでした。

さらにケーゼビアがアメリカ女性プロ写真家協会の設立に協力し始めた頃から、スティーグリッツは彼女の作品を公然と批判するようになります。彼女を絶賛していた批評家も、手のひらを返したように酷評をはじめます。1912年、ケーゼビアはついにフォト・セセッションを脱退。自らのポートレート写真撮影を続ける一方、クラレンス・H・ホワイトを中心とするピクトリアリスムの写真団体設立に協力するなど、スティーグリッツとは別の道を歩むことになりました。

ケーゼビアの存在、それは写真を志す多くの若い女性にとって、写真家としての芸術的センスをもち、経済的・社会的に自立した女性であるという面で、憧れであり、励みでもありました。イモージン・カニンガムもそのひとりで、カニンガムはケーゼビアに憧れて写真を撮り始めたといいます。

1934年、82歳で死去。作品の多くはデラウェア大学に収蔵されています。


Gertrude Kasebier ガートルード・ケーゼビア

フォト・セセッションの写真家の作品には、見る者を混乱させるようなタイトルがつけられることがあります。『戦争未亡人』と題された下の写真の女性が、実際に未亡人かどうかは定かではなく、本当の母子なのかすらも不明です。ケーゼビアは基本的に、フィクションとしての写真を制作することを好みました。その意味では、同じ女性写真家、ジュリア・マーガレット・キャメロンは特筆すべき先輩といえるでしょう。キャメロンは著名人のポートレートを撮影しましたが、それらは多くの場合本人の肖像ではなく、シェイクスピアの戯曲、神話などの登場人物に見立てたものでした。

そういう訳で、もし写真の女性が本当に未亡人だったとしたら、ケーゼビアはストレートにタイトルにしただろうか、と逆に疑いたくなります。

ともあれ、「未亡人と子ども」という状況を前にして、私たちは感傷的で哀れを催すその内容に心惹かれます。しかし、この写真の要点は未亡人ではなく、写真を構成している視覚的な手法にあります。この見地から見た場合、これは非常に洗練され、同時に革新的な写真です。


Gertrude Kasebier ガートルード・ケーゼビア

この写真に対する人びとの最初の反応は、「何かがおかしい」というものです。写真を視覚的に分析してみると、薄暗い室内に、2つの隣接する明るい部分があることに気づきます。ひとつは女性と子どもの衣服であり、もう一方はテーブルと窓です。テーブルと窓はつながり、ひとつの物体に見えます。そのため、テーブルも含めて画面の奥にあるような、凹んだ印象を与えます。その結果テーブルの脚を取り囲む暗い背景が浮かび上がって見えるのです。

もちろん我々の脳は、本当はテーブルが画面の奥に凹んでいるのではないと理解はしています。しかし、視覚は脳の合理的判断に反するかのように黒い背景を浮かび上がらせ、ふたつの解釈の間を行ったり来たりするのです。

ケーゼビアがそれを計算のうえで撮影したのかどうか、それはわかりません。むしろファインダーを覗いて、「あら、とても奇妙で興味深いデザインだわ」とつぶやいて撮影した、その結果が思わぬ効果を生んだということなのかもしれません。





ガートルード・ケーゼビア / キュレーターおすすめの写真集
Gertrude Kasebier: The Photographer and Her Photographs

ケーゼビアに関する初の専門書。ニューヨークのMoMAで回顧展が開催されたときにキュレーターを務めたバーバラ・マイケルズによる評伝と、写真作品を掲載しています。ポートレート写真を芸術にまで高めたパイオニアによる作品の数々を堪能できます。



Gertrude Kasebier: The Complexity of Light and Shade

デラウェア大学で開催された回顧展のカタログとして出版されました。大学図書館収蔵の未発表写真作品や手紙などの資料を紹介。また当時の写真技術を最新技術を駆使して分析し、ケーゼビアの再評価を行っています。



Buffalo Bill's Wild West Warriors

「バッファロー・ビルのワイルドウェストショー」出演のスー族インディアンたちを撮影したポートレート集。当時のインディアンたちの貴重なショットであると同時に、仕事としてではなく個人的な興味や関心から取り組んだケーゼビアの作品を味わえます。こちらも必見。



ガートルード・ケーゼビアのことば・名言集
  • アーティスティックな写真を撮る鍵は、自分が考えていることを、自分自身の力で表現することにあります。他人の物まねでは到底うまくいきません。
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