Imogen Cunningham イモージン・カニンガム




Imogen Cunningham
イモージン・カニンガム
(イモージェン・カニンハム)


アメリカ, 1883-1976

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Imogen Cunningham イモージン・カニンガム

イモージン・カニンガムは、1883年にオレゴン州ポートランドで生まれました。彼女の父アイザックは、シェークスピアの戯曲『シンベリン』に登場するヒロインにちなんで、イモージンと名づけました。小学校に入る前から読み書きを教え、夏休みにはアート・レッスンに通わせたりと教育熱心な父親でした。

カニンガムはシアトルで成長し、ワシントン大学に通いました。女性写真家ガートルード・ケーゼビアに憧れ写真家になることを希望していましたが、そのためには科学的な知識が必要だという教授の勧めを受けて、化学を専攻しました。そして学費を稼ぐために教授の秘書や、植物学者のもとでスライド作成のアルバイトをしながら勉強を続けました。卒論のテーマは「現代写真技法」でした。

卒業後、カニンガムはシアトルにあるエドワード・S・カーティスの写真スタジオで働き始めました。エドワード・S・カーティスは北米大陸のネイティブ・アメリカン(インディアン)を数多く撮影した写真家で、彼のもとでカニンガムはプラチナ・プリントの技法を習得しました。1909年、大学の奨学金を得た彼女はドイツのドレスデンで写真化学を学びました。

帰国後はシアトルに写真スタジオを開設。シアトルでは頻繁に作品を発表しましたが、それらは主として本人や友人が扮装して撮影した、絵画的でソフト・フォーカスの写真でした。また、『女性の職業としての写真』という本も出版しています。そのなかで女性に対し職業を得て自立することを奨励しています。男性を打ち負かすためでなく、自分自身のために努力することを説いたのです。

1914年、初の個展がブルックリン美術館で開催されました。
カニンガムは、シアトルの版画家ロイ・パートリッジと結婚し、息子が誕生しました。ロイがオークランドのミルズ・カレッジで教師の職を得たため、彼女は自分のスタジオを閉めてカリフォルニアへ移ります。そこでは双子の男の子も誕生して、3人の息子の子育てや家事に追われ、彼女の写真は主に子どもたちや庭の植物を撮影するだけに制限されていきます。


Imogen Cunningham イモージン・カニンガム

1920年代に入ると、カニンガムは従来のソフト・フォーカスの写真から、ピントの合った植物の近接撮影の写真や、工業地帯の風景や建築物などをユニークな視点でとらえた写真を撮るようになります。光と形、そして抽象的なパターンを巧みに扱ったこれらの作品は、西海岸における現代写真のパイオニアの一人に数えられています。

カニンガムがアンセル・アダムスと出会ったのもその頃です。サンフランシスコ界隈の芸術界における有名なパトロンだったアルバート・ベンダーとともに、アンセル・アダムスがミルズ・カレッジを訪れたのがきっかけです。ベンダーはミルズ・カレッジの図書館に本を寄贈し、それらの本を運ぶための車をアンセル・アダムスが運転して行ったのです。

1932年、アンセル・アダムスやエドワード・ウエストンらによって写真家グループ「グループf/64」が設立され、カニンガムも参加しました。当時を振り返ってアダムスはこう言っています「彼女が自分の持つクリエイティブな可能性に本当に気づき始めたのはこの頃じゃないかと思う。それまでの作品に見られた内向きの側面は次第に影を潜め、周囲の写真家たちの仕事に触れたりして、それが刺激になっていたようだ」と。


Imogen Cunningham イモージン・カニンガム

1934年、「ヴァニティ・フェア」誌から撮影の仕事を打診されます。ニューヨークでの仕事でした。夫ロイは、自分も同行できるようになるまで待ってほしいと望みましたが、それを振り切る形で彼女はニューヨークへ行きます。アンセル・アダムスは次のように語っています、「ヴァニティ・フェアの仕事ができるという願ってもないチャンスに、彼女は本当に興奮していた。それまでの彼女の仕事といえば、カレッジの女子学生の卒業写真を撮るとか、3人の男の子の世話をするとかで、もっと大きな仕事がしたいと思っていたようだったから。ヴァニティ・フェアでは多くの有名人のポートレートを撮影し、それが大きな自信になったと思う。特にアルフレッド・スティーグリッツ。スティーグリッツがどんな人物か知っているので、彼のポートレートを撮影するのがどれほど難しいことか、容易に想像できる。」

結局、カニンガムはロイと離婚しました。

ニューヨークから戻ると、カニンガムはドロシア・ラング、農業経済学者ポール・テイラーとともに材木業者の組合を取材するために旅行します。また、いわゆるストリート・フォトグラフィーも撮り始めます。1950年代にはビート・ジェネレーションの詩人たちを、60年代にはサンフランシスコのヒッピーカルチャー発祥の地、ヘイト・アシュベリーのフラワーチルドレンを撮影しました。さらに87歳でグッゲンハイムの奨学金を得て、自らの古いネガをプリントしました。同時に、ベトナム戦争に反対する姿勢を表明しました。

晩年も、カニンガムは死の直前まで精力的に活動しました。
92歳で最後となるプロジェクトに着手。90歳以上の人々を撮影したポートレートを写真集にするプロジェクトで、それは未完のまま終わってしまいましたが、カニンガムの死後にまとめられ、出版されました。

1976年6月23日、イモージェン・カニンガムは93歳で亡くなりました。


Imogen Cunningham イモージン・カニンガム

ここで紹介している「リーフ・パターン」の写真を、同時代の写真家ポール・ストランドが撮影した植物の写真と比較するのは興味深い試みです。どちらも技術的な意味では、ありのままを技巧に頼らず撮影した「ストレートフォトグラフィー」に属します。被写体を忠実に描写しているという点で、カニンガムとストランドはどちらも同じくらいストレートなのです。にもかかわらず両者の写真が違うのは、それぞれの写真家が何に興味を持っていたか、その違いによるものでしょう。

カニンガムはその植物自体にはあまり興味がなく、むしろ適正なライティングと正しい視点で撮影された植物が、写真という平面で見たときに植物以外の何になることができるかという点に興味を持っているようです。この意味では、この写真はストランド以上に1920年代の典型的な写真といえます。当時の写真は、それまでの見たものを見たままに撮影する手法から発展し、新しいアイデアと新しい展望を次々と発見しました。そのひとつが近接撮影による自然の造形パターンの写真でした。このため、その時代には似たような写真が何百万枚と発表されたのです。

そのなかで、カニンガムの写真はいまだに色あせることなく、目を見張るほど堂々と美しく刺激的です。なぜなら彼女の写真は、当時大量に出回ったいわゆる「自然の美しさを描写した」だけの陳腐で意味のない写真とは一線を画していたからです。カニンガムの写真が生命力と驚きに満ちているのは、植物の形状について熟知していたからだけではありません。葉っぱ同士が重なったり、すき間ができたり、または光を当てることによってつかの間生まれる偶然のフォームについてもよく分かっていたのです。

そういう意味でカニンガムは新しい構造を発見したといえるでしょう。物体に本来備わっている外観と、そこに生じた事実によって生み出される新しい構造物、それにより彼女の撮影テーマはどんどん展開していくのです。





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