
Richard Avedon
リチャード・アヴェドン

リチャード・アヴェドンは1923年、ニューヨーク市でユダヤ系ロシア人の移民の家庭に生まれました。本名はリチャード・アヴォンダといい、父親はニューヨークでも高級店が立ち並ぶフィフス・アヴェニューで婦人服販売店を開いて成功を収め、母親のアンナは婦人服製造業を営む家庭の娘でした。リチャードは子どもの頃から写真を学び、12歳でYMCAのカメラ・クラブに入りました。その後、詩を作り始め、ブロンクスのデウィット・クリントン高校在籍中には詩でニューヨーク市の賞を受賞したこともあります。
第二次世界大戦中の1942年、アヴェドンは軍に入隊し、父親から贈られたローライフレックスを使って乗組員たちの身分証明用写真を撮影する仕事に従事しました。1944年に除隊後は、ファッション写真家を志してニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(現ニュースクール大学)のデザイン研究所でアレクセイ・ブロドヴィッチに師事しました。ブロドヴィッチはロシア生まれの写真家で「ハーパース・バザー」誌のアートディレクターでもあり、ファッション写真の祖ともいえる人物です。
1945年、アヴェドンがスタジオを開き、フリー・カメラマンとして雑誌の撮影を行うようになると、瞬く間に「ハーパース・バザー」誌の売れっ子カメラマンとなりました。彼は従来のファッション写真に独自のアプローチを試みました。モデルたちを実に表情豊かに撮影したのです。微笑んだり、口をあけて笑ったり、またはじっと静止した状態で撮るのではなく、動き回っているところを撮ったりといった具合に。さらに、1896年生まれのハンガリー人写真家マーティン・ムンカッチに影響を受けていたアヴェドンは、モデルの撮影をスタジオ内ではなく屋外のストリートやナイトクラブ、サーカス小屋など従来では考えられないような場所で行いました。

ファッション写真と並行して、アヴェドンはポートレート写真も発表しています。写真という手段がもつ可能性=その人の個性や生命そのものを引き出す力に、彼は魅了されていたのです。彼は被写体を決して理想化しませんでした。その顔を美化せずあるがままに撮影し、ポーズや態度、ヘアスタイル、服装、アクセサリーをその人物を表現するために欠かせない啓示的な要素として記録したのです。「私の写真は目には見えないなにかを写しているわけではない。表面の、目に見えるものすべてを私は信頼しているのです。そこには手がかりがたくさんあるから」とアヴェドンは語っています。
アヴェドンは生涯を通じてポートレートとファッション写真の撮影を行い、雑誌に発表しました。1965年に「ハーパース・バザー」誌を去った後は「ヴォーグ」誌と契約し、その関係は1988年まで続きました。さらに後にはフランスのファッション雑誌「エゴイスト」や「ニューヨーカー」誌にも作品を発表しました。さらにカルヴァン・クライン、ヴェルサーチ、レブロンといったブランドの革新的な広告も手がけています。
ファッション写真家としての名声が高まる一方で、文化的、政治的または個人的な関心から、ポートレート写真のプロジェクトを続行しました。1963〜64年にはアメリカ南部で市民権運動を取材しました。ベトナム戦争が始まると、アメリカとベトナム双方で学生や反体制運動家やアーティスト、戦争負傷者などを撮影。1976年の大統領選挙の際には、有力政治家や実業家、文化人などのポートレートを集めた『THE FAMILY』を出版しました。また、父親のジェイコブ・イスラエル・アヴェドンの病気から死までを追った写真集も有名です。
1985年、アヴェドンは代表作『In the American West』を発表しました。アメリカ西部で撮影したポートレート集で、肉屋、炭鉱労働者、囚人、ウェイトレスなどさまざまな人々が、白い背景の前で大判カメラを使って撮影されています。2004年、「ニューヨーカー」誌の取材で訪れていたテキサスで倒れ、1週間後に亡くなりました。

駆け出しのファッション写真家だった時代から、すでにアヴェドンは「動き」に大きな興味を抱いていました。ただしその興味は科学的、理論的なものではなく、感覚的に動いているものに興味を引かれるというほうが正確かもしれません。写真術の黎明期には、肖像写真といえば撮られる側はひたすら動かずに我慢するのが常識でしたが、1950年代初頭の若きアヴェドンは、「動き」が本質的に良いものだと考えていたようです。
彼自身それを意識していたかどうかは別としても、自家用ジェット機で世界中を豪遊している富裕層のことを「ジェット族」と呼んだように、ファッショナブルな人間は一瞬たりとも羽を休めないというファッション業界のいわば「常識」を作り上げたひとりだったと言えるでしょう。
実際アヴェドンが撮影した優れたポートレートのなかで、被写体がじっと座っている写真を挙げてみようとしても思い浮かばないほどです。
始めのうち、アヴェドンは動きのある被写体に対しては文字通り動きで対応しようとしました。つまり、スローシャッターで撮影したのです。その結果、被写体はブレていて、まるで羽が生えて飛んでいる物体のように見えました。そのため「この写真は動きを表現しているのだ」と感じる人が少なくなかったのです。「動いているもの」を表現しようというアヴェドンの試みは成功したとはいえませんでした。
おそらくこれが原因で、アヴェドンは後にアプローチの仕方を根本的に修正しました。
彼は考え方を変えたのです。写真が「動き」に対してなしうる最も興味深いことは、その動きを一瞬にして止めてしまえることだ、と。ヴェスヴィオ火山の噴火で灰と化したポンペイの街から発掘されたかつては人間だったその痕跡が、まるで歩いている途中に突然時間を止められたような生々しさを漂わせているように、もしくは壊滅的な爆発の光に照らし出された顔が、その表情のなかにこれまで見たこともない意味を宿すことがあるように、アヴェドンは被写体の動きを非常に明瞭な化石のように写真に封じ込めたのです。

ニュースの画像を毎日目にしていると、話している人物の写真が心をひきつけたり、どことなく気になったりすることがあります。その顔が口をぽかんと開けているためです。口を開いた顔写真は時に滑稽に見えたり、間抜けに見えたり、または悲劇的な感じかしますが、根本的な原因は同じです。その写真には「生命」が封じ込められているためであり、我々の心はその生命に反応するのです。
アヴェドンは、アートやファッション界の伝説的人物や無名の人々など、実に多くのポートレートを撮影し、ドレスや靴の大きな売り上げに貢献するという一貫して挑戦的な作品群を構築したという点において重要な役割を果たしました。それらのポートレートはどれもそろいもそろって説得力があり、そしてどこか落ち着かないような気分にさせるという共通した特徴があります。
これらの特徴は、アヴェドンの洞察力によるものか、はたまた単なる思いつき?
その答えは、時間が明らかにしてくれています。
もし一過性の流行を追っただけの思いつきのファッション写真ならば時代を超えて残ることはありません。しかし、鋭い洞察にもとづいた作品だからこそ、それらはいつまでも私たちの心をつかんで離さないのです。
写真をクリックすると、大きい画像が表示されます
写真史における最重要プロジェクトのひとつと言われ、写真のもつ表現力が最大限に発揮されたアヴェドンの代表作です。
60年に及ぶアヴェドンのファッション写真の集大成的写真集。ヴォーグ、エゴイスト、ニューヨーカー、ハーパース・バザーに掲載された代表作が一堂に集められています。
- カメラの後ろに立ち、向こう側にはヘンリー・キッシンジャーがいたあの日のことを私は本当に何も覚えていない。彼もまた覚えていないと思う。しかしそのときの写真は今もここにあり、私のほうでどう好意的に撮影してみても彼が望むような写真にはならなかったことを証明している、いや私でさえそんな写真にするつもりはなかった。写真とは不思議で恐るべきものだということを思い出させてくれる一枚だ。