Timothy H. O'Sullivan
ティモシー・H・オサリバン


アイルランド〜アメリカ, 1840-1882

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Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

20世紀前半、写真が現在のような「芸術」の地位を確立するはるか以前のこと、アンセル・アダムスは19世紀に作られ、その後忘れ去られたような古い写真集を手に入れました。茶色の麻布と革で装丁されたその本にはアリゾナ、ニューメキシコ、ネバダで撮影された25枚の写真が紹介されていて、なかでもアダムスが秀逸だと感じた写真には「ティモシー・H・オサリバン」という名前が記載されていました。

1942年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で南北戦争と西部開拓をテーマにした展覧会が企画されました。MoMA写真部門の初代ディレクターであり、アダムスと親交のあったボーモント・ニューホールは、どんな写真を展示すべきかアドバイスを求めました。するとアダムスはオサリバンがいいと熱心に薦め、その写真集をニューホールに送りました。

アダムスはオサリバンの西部の風景写真に魅了されていましたが、ニューホールは南北戦争を記録した写真家を紹介したいと考えていたため、両者は手紙をやり取りして意見を述べ合いました。ところが、しばらくすると、ふたりは同じ写真家、 ティモシー・H・オサリバンについて語っていることに気づいたのです。


Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

ティモシー・H・オサリバンは、1840年アイルランドで生まれました。幼いころ、両親とともにアメリカに移住。一家はニューヨークのスタテン島に居を構えます。そして16歳くらいのとき、近所に住んでいた写真家マシュー・ブレイディのもとで見習いとして働き始めました。21歳のときに南北戦争が勃発。オサリバンは戦地に赴き、戦争を記録し始めました。

南北戦争以前、写真撮影は基本的に屋内で行われるべきものでした。人びとは晴れ着を着て写真スタジオを訪れ、家族写真を撮ってもらう。そういう役割でした。ところが、戦争がすべてを変えました。屋外に機材を運び出し、戦争に携わる人間のさまざまな行動や生死を記録し始めたのです。南北戦争がフォトジャーナリズムを発明したといってもいいでしょう。北軍だけでも400人のカメラマンが登録されていたといいます。とはいえ、当時の写真撮影は、大きくて重い機材を持ち運び、複雑な操作をする必要があったために非常に難しく、少しでも価値のある写真を撮影できたカメラマンはほんのわずかでした。

オサリバンは、南北戦争で最も優れた作品を残しました。さらに、戦争終結後も、政府による北アメリカ大陸西部の地質調査に同行して活躍しました。27歳から34歳にかけての期間です。戦争という過酷な経験を経て、未開の地を生き抜く術を身につけていたのです。

殺人的な暑さと寒さ、荒れ狂う大河の航行、もしくは日照り続きの水不足。ときには蚊の大群に襲われ気も狂わんばかりになり、敵意をあらわにしたインディアンからも常に狙われ、気が抜けない日々を送ります。道のりははるか遠く、このままでは遭難するのではないかという絶望的な恐怖と隣り合わせの毎日……。


Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

実際、たびたび失敗もありました。1871年、31歳のときの探検旅行中、彼は300枚を超えるネガを制作しました。当時はまだフィルムが発明されておらず、湿板と呼ばれるガラス板に撮影した後、いいショットだけを厳選して現像を行い、ネガを作成する必要があったのです。ところが調査団の船がコロラド川で転覆し、大切なネガのほとんどが使えなくなってしまったことがありました。

現在では想像もつかないような厳しい状況下では、写真家に求められる第一の条件が芸術的才能ではないことがおわかりでしょう。芸術的センスだけでは写真は撮れなかったのです。写真を愛し、さまざまな困難を乗り越えた者だけが、こんにち私たちが見ることのできる傑作を生み出したのです。


Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

特に風景写真において、オサリバンは独自の優れた目を持っていました。そして、写真が抱える形式的な問題への解決策として、彼は直感的で独創的なアプローチを試みました。それは空の扱い方です。当時の写真術、つまり湿板写真は、感光材であるガラス板が青色の波長の光に敏感に反応するという性質がありました。その結果、日中に屋外で撮影すると、青い空の部分だけが露出オーバーになり、ただの空白として現れたのです。

絵画に描かれたような、青い空に白い雲が浮かんでいる従来の表現にこだわる写真家たちは、空の部分だけを別のネガからプリントしてはめ込むことで雲を表現しました。それに対して、オサリバンは露出オーバーで白飛びした空を受け入れ、逆にそれをひとつの形として効果的に使いました。風景のなかの地平線と、画面の縁とによって閉じ込められたひとつの世界、それは実に印象的な形でした。

オサリバンの風景写真は、まるで巧みに組み上げられた石垣のように正確で無駄がありません。ガラス板は貴重なものでした。その貴重なガラス板を彼はたいへんな努力を払い、はるばる西部まで運んだのです。彼の作品は、その貴重なガラス板の隅の1mm四方に至るまで、完璧に活かさなければならないとでもいうように構成されています。

1874年のコロラド、ニューメキシコ遠征を最後に、オサリバンの長い冒険の旅は終わりました。34歳のことです。そして前年結婚した妻ローラとともにワシントンで新生活をスタートさせました。生活は困窮を極め、プリントの仕事などでなんとか生計を立てていましたが、西部で撮影した写真を個人的にまとめるというプランも持っていたようです。しかし、その生活は長く続きませんでした。2年後、ふたりは息子を死産で失います。さらにその4年後、夫婦そろって結核におかされ、それぞれ実家の家族のもとで別々に療養生活に入りました。

1881年10月、妻ローラは別居療養中の夫に看取られることなく息を引き取りました。オサリバンはなんとか力を振り絞って葬儀に参列したといいます。が、程なく自身も病状が悪化。3か月後の1882年1月、スタテン島の自宅で結核により亡くなりました。42歳でした。





ティモシー・H・オサリバン / キュレーターおすすめの写真集
Timothy H. O'Sullivan: The King Survey Photographs (Nelson-Atkins Museum of Art)

地質学者で登山家のクラレンス・キングが指揮する西部地質調査に同行したオサリバンの写真集。大判の写真集で彼の風景写真の真髄を味わうことができます。



Framing the West: The Survey Photographs of Timothy H. O'Sullivan

初版は30年以上前に出版されました。オサリバンの西部調査に関するバイブル的な写真集です。この2010年の新装版では新たに未発表写真も収録されています。



Timothy Sullivan: America's Forgotten Photographer

オサリバンの短くも激動の生涯に興味をもった方にはこちらもおすすめです。




ティモシー・H・オサリバンのことば・名言集
  • (ネバダ州フンボルトシンクでの撮影について)理想的な楽しい撮影だった。唯一の欠点といえば旅の間中、食欲旺盛で強力な毒をもつ蚊の大群につきまとわれることぐらいだ。それに加えて、しばしば発熱で気力を根こそぎ奪われそうになる。マウンテンエールと呼ばれる症状である(訳注:マラリア)。この地でこれ以上撮影を続けられない理由がこれでお分かりだろう。蚊と病気、どちらも筆舌につくしがたい程に我慢ならないといっていい。
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