William Klein
ウィリアム・クライン


アメリカ, 1928-

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William Klein ウィリアム・クライン

ウィリアム・クラインは1928年、ニューヨークの貧しいユダヤ系家庭に生まれました。わずか14歳で高校を卒業すると、ニューヨーク市立大学に入学し、社会学を学びました。その後陸軍に入隊。軍が発行する新聞の漫画家として2年間を過ごした後、パリに渡り、復員兵援護法という退役軍人のための奨学金制度を利用してソルボンヌ大学に入学しました。当時の彼は抽象画と彫刻に興味を持っていました。

カメラを手にしたきっかけは、自身が制作した壁画を撮影したこと。こうして、写真に関する正式な教育を受けないまま、写真家としての活動をスタートさせました。初期の作品はマン・レイアレクサンドル・ロトチェンコ、バウハウスの影響を受けていました。




William Klein ウィリアム・クライン

フランスに移住した6年後、クラインは久しぶりに故郷ニューヨークを訪ね、この大都市の混沌とした姿を猛烈なエネルギーで撮影し始めました。それはアンリ・カルティエ=ブレッソンがパリを撮影したのとは正反対ともいえる方法でした。広角レンズ、高感度フィルム、今までにない構図とプリント手法を用いた、革命的で斬新な作品をクラインは次々と制作していきます。

こうして出来上がった写真集『ニューヨーク(原題:Life Is Good & Good for You in New York: Trance Witness Revels )』は1956年にナダール賞を受賞しました。1980-81年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)でクラインの初期作品の展覧会が開催されましたが、写真部門のキュレーターであったジョン・シャーカフスキーは次のように述べています。

「1950年代のクラインの写真は、あの時代におけるおそらく最も妥協を許さない作品だった。なによりも大胆で、首にできた腫れ物のように見るからに危険であり、通常の写真の基準からはいちばん遠く離れたところにあった。彼は、写真で表現しうる世界をすっかり押し広げてしまった。つまりクライン以降、写真がよく多くを語れるようになったのだ」と。


William Klein ウィリアム・クライン

よく言われることですが、いわゆる高度な撮影技術が必ずしも最高の写真を生むとは限りません。粒子が荒くて単純な構図の「出来の悪い」写真のほうが、絵画のように美しくプリントされた写真よりも主題に適しているということも起こりえます。しかしながら、昔はそれは偶然がもたらした結果であるとみなされていました。報道カメラマンやドキュメンタリー系の写真家は、命の危険を冒し、忍耐強くシャッターチャンスを待ったご褒美として、偶然の傑作を生み出すことができるのだと。一方で、芸術的な写真を志す写真家が、こうした写真が表現の可能性を広げることになると認めるようになるまでには長い期間を要しました。

この状況が変化したのは1950年代、フィルムの感度が飛躍的に向上したことが原因です。高感度フィルムの登場によってほとんど光がない場所でも撮影が可能になりました。すると突然、テレビの砂嵐のようにザラザラした感じの写真が世の中にあふれ出したのです。これらの写真のなかには、粘土細工のように表面の質感を重視するのではなく、まるでデッサンのごとく「線とかたち」の描写によって表現に成功するものがありました。

次第に写真家たちは、新しい時代の新しい素材を理解し、期待を抱くようになりました。そしてその素材に適合するように自分たちの視点を変化させていったのです。つまりじっくりと対象と向き合って熟慮し、細部に至るまで丁寧に作りこむのではなくて、シンプルで明快な輪郭を用いて瞬間をとらえるようになりました。


William Klein ウィリアム・クライン

こうした写真は雑誌に掲載するのにとりわけ効果的でした。なぜなら雑誌の写真は、長く人々の記憶に残る必要はないからです。重要なのは最初のインパクトであり、その写真がいつまでも鑑賞されるかどうかは問題ではないのです。人々に瞬間的にインパクトを与え、雑誌を手に取ってもらうのが目的なのですから。この系統の写真に長く愛される名作が少ないのもうなずけます。

しかし、実験的な試みを繰り返すことで、「見たものをどう表現するか」という基本的で原始的ですらある問題に写真家たちが正面から向き合い、理解を深めていったのも事実です。なかでも才能ある写真家たち、例えばウィリアム・クラインは「クリアな写真」についての我々の常識を軽々と超えた傑作を生みだしました。それは完璧な装備、完璧なセッティングで撮影され、美しくプリントされた表面的、技術的な「クリア」ではありません。目の前の対象物をよく観察して理解する明晰さ、自分の個性を発揮して編集する才能、そして誰の真似でもない自分のオリジナルを創造する強さ、これらがクラインにとっての「クリアな写真」に違いありません。





ウィリアム・クライン / キュレーターおすすめの写真集
William Klein, New York, 1954-1955

ウィリアム・クラインの伝説的デビュー写真集をクライン本人が再編集した本。レイアウト、内容ともに刷新され、未発表作品も収録されていますが、出版当時のみずみずしい息吹は当時のまま。


William ABC

クライン自身が編集、デザインした入門本のような一冊。ニューヨーク、モスクワ、ローマ、東京、パリのストリート写真、ファッション写真、監督映画のポスターやスチール写真など、これ一冊でクラインの世界に浸れます。



Rome + Klein

1956年、28歳のクラインはローマへ。理由はフェリーニの映画『カビリアの夜』の助監督に抜擢されたこと。しかし撮影は遅々として進まず、クラインは空き時間を利用してローマの町を歩き回り、撮影しました。こうして出来上がった都市のビジュアル・ダイアリーともいえる本作は、フェリーニをして「ローマはそれ自体が映画だ。そしてクラインはそれをやってのけた」といわしめた快作。


William Klein: Paris + Klein

多くのアーティスト同様パリに住むことを夢見て、実現させたクラインの写真集。アンリ・カルティエ=ブレッソンが描くパリと比べてみるのも興味深いです。



Brooklyn+klein

ニューヨークを大胆に活写したデビュー作から60年後、クラインは新たな挑戦を始めました。デジタルカメラによるニューヨークはブルックリンの撮影です。「ノー・ルール、ノー・リミット」のモットーはそのままに、ブルックリンという町の万華鏡を作り上げました。




ウィリアム・クラインのことば・名言集
  • ニューヨークの写真集はビジュアル・ダイアリーであり、一種の個人的な新聞でもある。ニュースのように見せたかったのだ。私はヨーロッパ人の写真には馴染めなかった。私にはあまりに詩的すぎるし、風刺が効きすぎている。ニューヨークという都市の活動的な特質、子どもたち、ほこりや泥、狂気。それに見合う写真表現を見つけようとした。それで粒子の荒い、コントラストの効いた、黒の画面になった。トリミングし、ボケさせ、ネガをもてあそんだ。こぎれいなテクニックはニューヨークには似合わなかった。私には自分の写真がタブロイド紙のようにドヤ街に転がっているさまが想像できた。
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