
エクセレント・フォトグラファー 厳選された世界の写真家
アジェ・フォト
Atget Photography
ビューティフル・アーティスト 洗練された個性の美
実際のところ、アジェの生い立ちや写真を撮った理由についてはよくわかっていません。
いくつかの断片的な事実や逸話などからぼんやりとした輪郭が浮かび上がっているだけです。
1857年、ボルドー近くのLibourneで生まれたアジェは、若いころは水夫をしていましたが、その後、旅回りの役者に転じました。脇役ばかりで大きな成功は収められなかったために、画家をやってみたりしましたが、結局40歳のときに写真を始め、これがライフワークとなったのです。
一見すると、彼は典型的なコマーシャルフォトグラファーのように思われています。けっして革新的な写真ではなく、当時すたれつつあったテクニックで愚直なまでに丁寧に仕事をしました。
晩年になると、そのテクニックは当時の流行から外れ、アナクロにさえ思われたはずです。
ムーヴメントを巻き起こしたわけでもなく、同調者もいませんでしたが、アジェの写真の純粋さ、強烈さに匹敵する写真家はほかにいないでしょう。
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ラズロ・モホリ=ナギは、ハンガリー南部の小さな農村で生まれました。本名はラズロ・ヴァイスといい、再従兄弟(またいとこ)には指揮者、ピアニストとして活躍したゲオルグ・ショルティ卿がいます。
少年時代、ラズロの父は家族を捨てて家を出てしまいます。このため、彼は「ヴァイス」というユダヤ系の父親の姓から、「ナギ」(ハンガリー語では「ナジ」)という姓に変更しました。ナギは離婚後の家族をサポートし、ラズロと弟の面倒を見てくれたハンガリー人弁護士の苗字です。
1913年、モホリ=ナギは大学で法律を学ぶためにブダペストに行きましたが、まもなく第一次世界大戦が勃発。オーストリア・ハンガリー軍の砲兵隊に召集されます。が、やがて負傷し、陸軍病院に収容されることになりました。回復までの間に彼はスケッチを始めます。戦場での生活、同僚たち、戦地で出会った人々。その出来栄えはどうあれ、絵画に対する自らの情熱を見出したのです。終戦後、ブダペストに帰ったモホリ=ナギは法律の学位を取得しますが、すでに画家になることを決意していました。
戦争と革命に明け暮れた1910年代が終わりに近づき、ヨーロッパの若いアーティストのなかに、新しくてより良い社会を創造しようという気運が高まりました。そして次第に「未来派」と呼ばれた破壊的な前衛芸術活動から離れていったのです。「芸術のための芸術」は無用となり、自分たちの芸術を社会の役に立たせることを望んだのです。
1918年のハンガリー革命の後、モホリ=ナギはハンガリー共産党への入党を希望します。しかし、家柄がブルジョワ的だという理由で拒絶されてしまいます。その後は芸術の革命的な可能性を信じる集団「グループMA」に所属し、表現の幅を大きく広げてゆきます。同年8月ハンガリー・ソビエト共和国が崩壊するとドイツへ亡命し、アバンギャルドな芸術が花開いていた国際都市ウィーンへ、やがてベルリンへと向かいます。そして、ベルリンで彼の才能が結晶となって現出してゆきます。ダダイズム、シュプレマティスム(ロシアで起こった芸術運動で、抽象芸術の一派)、ロシア構成主義の影響を受けた抽象画を制作しました。
また、1922年には才能あふれる女性写真家ルチア・シュルツと出会い、結婚。その影響で写真を新たな芸術表現の手段として考えるようになりました。そして、フォトグラムという実験的な写真作品を制作します。カメラを使わず、印画紙の上に直接物体などを置いて感光させる手法で、これによりモホリ=ナギは光と影、透明性や形態について探索することができました。この手法自体は古くから行われていてモホリ=ナギが発明したわけではありませんが、「フォトグラム」という名称はモホリ=ナギが命名したものです。
エドワード・スタイケンは1879年、ルクセンブルクで生まれました。10歳のときに両親、妹とともにアメリカに移住し、その後1900年に帰化してアメリカ人となりました。
1894年、15歳になったスタイケンは、ミルウォーキーで石版印刷の見習いとして働き始めます。一日の仕事を終えるとスケッチをしたり絵を描いたりしていましたが、たまたま職場の近くにあったカメラ店を訪れるようになり、ついに最初のカメラ、コダックの中古の携帯用カメラを購入します。
スタイケンはその後ミルウォーキーからパリへ行きますが、その途中ニューヨークでアルフレッド・スティーグリッツに出会いました。スティーグリッツはスタイケンの絵画を賞賛し、さらに彼の撮影した写真を3枚購入しました。1902年、スティーグリッツは写真雑誌『カメラワーク』の創刊を企画していたとき、スタイケンに表紙のロゴ・デザインと活字の制作を依頼しました。1905年にはスティーグリッツが「フォトセセッションの小ギャラリー」(その所在地の住所から通称「291ギャラリー」と呼ばれた有名なギャラリー)を設立するのに協力しました。
1911年、スタイケンはフランス人ファッション・デザイナーのポール・ポワレがデザインしたガウンの写真を撮影し、『Art et Decoration』誌の4月号に掲載されました。これが世界で最初に撮影されたファッション写真であるといわれています。
第一次世界大戦中はアメリカ遠征軍の航空撮影部門で参戦しましたが、大戦後はストレートな写真へとその写真スタイルを変化させ、徐々にファッション写真を中心に活動するようになります。1928年にスタイケンが撮影した女優グレタ・ガルボのポートレートは、彼女の代表的なポートレート写真のひとつといわれています。
第二次世界大戦が始まると、アメリカ海軍写真班で指導に当たり、一方でドキュメンタリー映画を制作しました。この戦争ドキュメンタリー『ファイティング・レディー』は1945年度アカデミー賞のベストドキュメンタリー賞を受賞しています。戦後はニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターを1962年まで務めました。
ニューヨーク近代美術館のキュレーター時代の仕事として有名なのは、1955年に開催された写真展「ファミリー・オブ・マン」展でしょう。この写真展は、200万枚以上の写真のなかからスタイケンがセレクトしたおよそ500枚から構成されていて、有名・無名に関わらず68か国273人の写真家の作品を集め、編集したものです。写真展は大成功を収め、38か国で展覧会が開催されました。これらの写真は、最終的にはスタイケン本人の希望により、彼の祖国ルクセンブルクに寄贈され、現在でもクレルヴォー城で常設されています。「ファミリー・オブ・マン」展は2003年、ユネスコの世界記録遺産に登録されました。
ロバート・フランクは1924年、スイスのチューリッヒに生まれました。
1947年に23歳でアメリカに移住、当初は商品撮影やファッション写真で生計を立てていましたが、その後ヨーロッパ各地を旅しながら写真を撮りました。
1955年、グッゲンハイム財団の奨学金を得て、アメリカ全土の撮影旅行に出ます。約2年間の旅で撮影した写真を編集したのが、写真集「The Americans」です。
旅を始めた頃のフランクは、まだアメリカでは新参者といっていい存在でした。そして、当時のアメリカン・カルチャーのド派手な狂気と、一方では妙に心を動かされるという矛盾を体験し、それこそ口も利けないほどの驚きを感じていたかもしれません。こうしたショックは、大人になってからアメリカに移住してきた多くの人々が経験したものでしょう。
ほんの一握りのアーティストや知識人だけが、逆にこの経験をクリエイティブな世界での武器にすることができました。新しい国への移住が、まるで生まれ変わりを意味するように。
