Atget Photography アジェ・フォト


 ビューティフル・フォトグラファー 洗練された写真家

 アジェ・フォト
Atget Photography

 エクセレント・ブックス 厳選された写真集  


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ウジェーヌ・アジェ Eugene Atget [1857-1927]
Eugene Atget

実際のところ、アジェの生い立ちや写真を撮った理由についてはよくわかっていません。
いくつかの断片的な事実や逸話などからぼんやりとした輪郭が浮かび上がっているだけです。

1857年、アジェはボルドー近くのリブルヌ(Libourne)で生まれました。彼が幼い頃に両親が相次いで亡くなり、母方の祖父母に育てられました。若いころは商船の水夫をしていましたが、その後、旅回りの役者に転じました。ところが脇役ばかりで大きな成功は収められなかったために、次は画家を志してみたりしましたが、結局40歳のときに写真を始め、これがライフワークとなったのです。



Eugene Atget

一見すると、アジェは典型的なコマーシャルフォトグラファーのように思われています。彼が写真を撮ったのは、自己表現のためでも芸術作品を作るためでもなく、画家が絵を描くときの資料となる写真を販売するためでした。 その写真はけっして革新的なものではなく、当時すたれつつあったテクニックで愚直なまでに丁寧に仕事をしたのです。

晩年になると、そのテクニックは当時の流行から外れ、アナクロにさえ思われたはずです。
ムーヴメントを巻き起こしたわけでもなく、同調者もいませんでしたが、アジェの写真の純粋さ、強烈さに匹敵する写真家はほかにいないでしょう。








アーティストのことば


 
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ウィリアム・クライン [1928- ]
William Klein ウィリアム・クライン

ウィリアム・クラインは1928年、ニューヨークの貧しいユダヤ系家庭に生まれました。わずか14歳で高校を卒業すると、ニューヨーク市立大学に入学し、社会学を学びました。その後陸軍に入隊。軍が発行する新聞の漫画家として2年間を過ごした後、パリに渡り、復員兵援護法という退役軍人のための奨学金制度を利用してソルボンヌ大学に入学しました。当時の彼は抽象画と彫刻に興味を持っていました。

カメラを手にしたきっかけは、自身が制作した壁画を撮影したこと。こうして、写真に関する正式な教育を受けないまま、写真家としての活動をスタートさせました。初期の作品はマン・レイアレクサンドル・ロトチェンコ、バウハウスの影響を受けていました。




William Klein ウィリアム・クライン

フランスに移住した6年後、クラインは久しぶりに故郷ニューヨークを訪ね、この大都市の混沌とした姿を猛烈なエネルギーで撮影し始めました。それはアンリ・カルティエ=ブレッソンがパリを撮影したのとは正反対ともいえる方法でした。広角レンズ、高感度フィルム、今までにない構図とプリント手法を用いた、革命的で斬新な作品をクラインは次々と制作していきます。


 
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アーヴィング・ペン [1917-2009]
Irving Penn アーヴィング・ペン

ファッション写真の撮影で知られるアーヴィング・ペンは、1917年、アメリカ・ニュージャージー州で生まれました。

フィラデルフィア美術大学でファッション雑誌「ハーパース・バザー」のアートディレクターとして有名なアレクセイ・ブロドビッチのもとで学び、1938年に卒業しています。その後、「ハーパース・バザー」誌にイラストが掲載され、絵も描きましたが、程なくして写真の才能が開花し、彼は第二次世界大戦後のおしゃれでシックなファッション写真撮影の第一人者として知られるようになりました。そして、「ヴォーグ」誌で長年にわたりファッション写真の撮影を手がけました。

彼はシンプルなグレー、または白といった背景にモデルを効果的に配置することに成功した最初のカメラマンの一人です。また、それまでのカメラマンがスタジオの照明を駆使していたのに対し、ペンは窓から差し込む自然光を巧みに取り入れました。ニュー・ギニアやペルーなど世界中を旅行して、先住民の写真を撮るときも、北向きに天窓の開いた仮設の移動式スタジオを作り、非常な効果をあげています。



Irving Penn アーヴィング・ペン

一番最初の、おしゃれなドレスに身を包んだ美しい女性のポートレートは、ファッション写真の分野でのアーヴィング・ペンの傑作です。 この写真は、表面的には19世紀の肖像画のような、飾り気のない質素な雰囲気が漂っています。 一見すると、衣装の豪華な質感も感じられず、舞台装置のような派手な照明もなく、上品で高級な小物も使わず、つまり彼女の社会的背景を示すようなものは何も写りこんでいません。

そこにあるのは、ひとりの非常にエレガントな女性についての、原始的なまでにシンプルな記録なのです。


 
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リチャード・アヴェドン [1923-2004]
Richard Avedon リチャード・アヴェドン

リチャード・アヴェドンは1923年、ニューヨーク市でユダヤ系ロシア人の移民の家庭に生まれました。本名はリチャード・アヴォンダといい、父親はニューヨークでも高級店が立ち並ぶフィフス・アヴェニューで婦人服販売店を開いて成功を収め、母親のアンナは婦人服製造業を営む家庭の娘でした。リチャードは子どもの頃から写真を学び、12歳でYMCAのカメラ・クラブに入りました。その後、詩を作り始め、ブロンクスのデウィット・クリントン高校在籍中には詩でニューヨーク市の賞を受賞したこともあります。

第二次世界大戦中の1942年、アヴェドンは軍に入隊し、父親から贈られたローライフレックスを使って乗組員たちの身分証明用写真を撮影する仕事に従事しました。1944年に除隊後は、ファッション写真家を志してニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(現ニュースクール大学)のデザイン研究所でアレクセイ・ブロドヴィッチに師事しました。ブロドヴィッチはロシア生まれの写真家で「ハーパース・バザー」誌のアートディレクターでもあり、ファッション写真の祖ともいえる人物です。


Richard Avedon リチャード・アヴェドン

1945年、アヴェドンがスタジオを開き、フリー・カメラマンとして雑誌の撮影を行うようになると、瞬く間に「ハーパース・バザー」誌の売れっ子カメラマンとなりました。彼は従来のファッション写真に独自のアプローチを試みました。モデルたちを実に表情豊かに撮影したのです。微笑んだり、口をあけて笑ったり、またはじっと静止した状態で撮るのではなく、動き回っているところを撮ったりといった具合に。さらに、1896年生まれのハンガリー人写真家マーティン・ムンカッチに影響を受けていたアヴェドンは、モデルの撮影をスタジオ内ではなく屋外のストリートやナイトクラブ、サーカス小屋など従来では考えられないような場所で行いました。

ファッション写真と並行して、アヴェドンはポートレート写真も発表しています。写真という手段がもつ可能性=その人の個性や生命そのものを引き出す力に、彼は魅了されていたのです。彼は被写体を決して理想化しませんでした。その顔を美化せずあるがままに撮影し、ポーズや態度、ヘアスタイル、服装、アクセサリーをその人物を表現するために欠かせない啓示的な要素として記録したのです。「私の写真は目には見えないなにかを写しているわけではない。表面の、目に見えるものすべてを私は信頼しているのです。そこには手がかりがたくさんあるから」とアヴェドンは語っています。



 
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ブルース・デビッドソン [1933-]
Bruce Davidson ブルース・デビッドソン

ブルース・デビッドソンは1933年、イリノイ州オーク・パークで生まれました。シカゴ近郊のこの村は、作家アーネスト・ヘミングウェイの出身地としても知られています。写真を撮り始めたのは7歳のとき。「同じ年頃の子どもがみな犬を飼いたいと両親にねだったが、私だけカメラを欲しがった」といいます。1952年、19歳のときにコダックが主催する高校生写真コンテストにフクロウの写真を出品し、最優秀賞を受賞しました。高校卒業後は、ロチェスター工科大学(ニューヨーク州)とエール大学(コネチカット州ニューヘイブン)で写真学や映像技術を学びました。


Bruce Davidson ブルース・デビッドソン

大学卒業後は軍隊に徴兵され、パリ近郊に配属されました。彼はそこでマグナムの創設者の一人であるアンリ・カルティエ=ブレッソンと出会います。24歳で除隊になると、初めはフリーのカメラマンとしてLIFE誌に発表していましたが、翌年マグナムの正式メンバーに加入しました。それから3年の間に、「Brooklyn Gang(ブルックリン・ギャング)」「The Dwarf(小人)」「Freedom Rides(フリーダム・ライド)」といった代表的なシリーズを制作しています。2009年に発表されたボブ・ディランのアルバムには、「ブルックリン・ギャング」の写真がジャケット写真として使われています。



 
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ティモシー・H・オサリバン [1840-1882]
Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

20世紀前半、写真が現在のような「芸術」の地位を確立するはるか以前のこと、アンセル・アダムスは19世紀に作られ、その後忘れ去られたような古い写真集を手に入れました。茶色の麻布と革で装丁されたその本にはアリゾナ、ニューメキシコ、ネバダで撮影された25枚の写真が紹介されていて、なかでもアダムスが秀逸だと感じた写真には「ティモシー・H・オサリバン」という名前が記載されていました。

1942年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で南北戦争と西部開拓をテーマにした展覧会が企画されました。MoMA写真部門の初代ディレクターであり、アダムスと親交のあったボーモント・ニューホールは、どんな写真を展示すべきかアドバイスを求めました。するとアダムスはオサリバンがいいと熱心に薦め、その写真集をニューホールに送りました。

アダムスはオサリバンの西部の風景写真に魅了されていましたが、ニューホールは南北戦争を記録した写真家を紹介したいと考えていたため、両者は手紙をやり取りして意見を述べ合いました。ところが、しばらくすると、ふたりは同じ写真家、 ティモシー・H・オサリバンについて語っていることに気づいたのです。


Timothy H. O'Sullivan ティモシー・H・オサリバン

ティモシー・H・オサリバンは、1840年アイルランドで生まれました。幼いころ、両親とともにアメリカに移住。一家はニューヨークのスタテン島に居を構えます。そして16歳くらいのとき、近所に住んでいた写真家マシュー・ブレイディのもとで見習いとして働き始めました。21歳のときに南北戦争が勃発。オサリバンは戦地に赴き、戦争を記録し始めました。

南北戦争以前、写真撮影は基本的に屋内で行われるべきものでした。人びとは晴れ着を着て写真スタジオを訪れ、家族写真を撮ってもらう。そういう役割でした。ところが、戦争がすべてを変えました。屋外に機材を運び出し、戦争に携わる人間のさまざまな行動や生死を記録し始めたのです。南北戦争がフォトジャーナリズムを発明したといってもいいでしょう。北軍だけでも400人のカメラマンが登録されていたといいます。とはいえ、当時の写真撮影は、大きくて重い機材を持ち運び、複雑な操作をする必要があったために非常に難しく、少しでも価値のある写真を撮影できたカメラマンはほんのわずかでした。

オサリバンは、南北戦争で最も優れた作品を残しました。しかし、戦争終結後も、政府による北アメリカ大陸西部の地質調査に同行して活躍しました。27歳から34歳にかけての期間です。戦争という過酷な経験を経て、未開の地を生き抜く術を身につけていたのです。





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